2011年3月11日。日本中が傷つき、今なお苦しんでいる方が多くいらっしゃる東日本大震災より11年が経つ。被災された方々に比べれば、どうってことない程度ながら『昭和40年男』にも大きく影響が出た忘れられない日となった。お悔やみ、お見舞いをまず前提としつつ、我々についてつぶやかせていただこう。
この日は、朝から大興奮の日だった。2009年10月にテスト創刊した『昭和40年男』は、翌年季刊誌として4冊を発行した。今に比べれば部数は小さかったが「イケる」と判断するのに十分な成績を残し、現在に至る隔月刊誌へと昇格させることを決めた。その日を迎えた号であり、気合バッチリの第6号が左の表紙だ。かなり突っ込んだ企画の数々で「家族」について語っていて、意欲的な特集である。今にも続くタメ年インタビューでは、まだ現役だった山本昌広さんのインタビューに成功した。僕が担当して、カメラを持って一人で沖縄のキャンプ地に乗り込んで取材させていただいた。同じく今も大好きな企画の「ガツンとひと言、兄貴の説教」では、高校時代より憧れ続けてきたブルース・シンガー、憂歌団の木村充揮さんにご登場いただき、やはり僕が書かせてもらった。発売日の翌々日にライブがプログラムされていたから、最新号の販売をさせてもらえることになっていた。これまで何度も観てきた木村さんながら、書くことで心が接近できた上でライブを目撃できることをすげえ楽しみにしていた。もちろんこれは中止になった。被災地より遠く離れた東京でも様々なパニックが起こり、希望に燃えていたスタートはそんなことを語るのが不謹慎なほどの空気に包まれた。
そして翌月には、被災地レポートの連載をスタートさせるべく現地に入った。当時、社会のど真ん中世代だった俺たちこそが、震災によって背負った傷を癒し、少しでもいい方向へと向けていくことが責務なんだと訴えたのだ。宮城県の一定地域の定点観測を連載で伝えていくことで、リアルに受け止めていただこうと取り組んだ。これが写真左の第7号である。拙い記者経験であるが、この取材は本当に辛く苦しくありながらも、やりがいを感じたものだった。手を合わせて回った被災地の記憶は強く強く心にあり、3月11日にはまた気持ちを新たに自分にできることに取り組もうと誓う。
このつぶやきに付き合ってくださっている方々とは気持ちを共有したく、今日はこんなつぶやきをお送りした。発売日は賑々しく騒ぎたいので、前倒したことをご容赦願いたい。
3月11日は色々な価値観を一変させてしまう出来事の一つでした。コロナ禍、そして今年はウクライナ危機で国際情勢すら一変させかねないと、これまでの常識が通用しない出来事のように見え、時代が逆戻りしてしまっている感覚すらあります。今後、雑誌の特集の中で「俺達を変えた出来事」としてこうした昭和40年世代が味わった歴史的な事件や災害とかを特集して欲しいです。
ペロろうさん、コメントありがとうございます。
ウクライナの件は、僕はつぶやけないほど憤っています。ニュースを見ながら涙するばかりで、何もできない自分が情けなくもあります。
本当にそうです。令和の時代にニュースでソ連がどうのこうのや、核戦争やチェルノブイリのワードが出てくるなんて夢にも思って無かったでしょうし…。1970年の大阪万博でも原子力は無公害で無尽蔵である夢のエネルギーとして紹介されていたそうですが、9年後のスリーマイル島、16年後のチェルノブイリ、そして東日本大震災の原発事故…。再び原子力による悲劇が起きてしまう危機は二度と来て欲しくはなかったのですが…。