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とんでもないスナック菓子が日本に激辛ブームを生んだ。
多感な小学生時代に食べた「カラムーチョ」が、初めての大人の味だったという昭和50年男は多いはずだ。業界の常識を覆した味は、現代において癒やしの味となった。その軌跡に迫る。
(『昭和50年男』本誌 2022年 1月号/vol.014 掲載
「 “激辛” の THE 原点。カラムーチョの挑戦」より 再編集 )
■「常識を覆せ!」開発チームの発想が革命を起こした!!
湖池屋の創業は1953年。もともとは、お好み揚げのようなおつまみ菓子の製造販売からスタートした。’62年には「湖池屋ポテトチップス のり塩」が誕生している。創業者がアメリカで生まれたポテトチップスと出会って、それを日本人向けにアレンジして初めて量産化に成功したという。当時、国産のポテトチップスは生まれていたが、一部のホテルに卸されるなど限られた場所で提供されている状況だった。
現在の「カラムーチョ」にも連綿と受け継がれる湖池屋の創造性。その秘話から教えてくれたのは、現在のマーケティング部で商品開発の任務に就いている加藤俊輔氏と小林重文氏だ。
「創業者の小池和夫はアメリカのポテトチップス工場を視察した後、自宅のキッチンで研究を繰り返し、自分たちで機械を作り、さまざまな苦労を重ねながらポテトチップスを生み出したといいます」(加藤氏)
ポテトチップスを日本の大衆に向けて初めて量産化した湖池屋は、’84年の9月にカラムーチョを誕生させた。こちらもやはり、湖池屋らしく進取の精神に富んだ商品だった。
「当時の話は、今でも湖池屋のなかでひとつの伝説として語られています。その頃は、食品業界全体を見渡しても辛さを売りにした商品は市場に存在していませんでした。今でこそ、ポテトチップスをはじめとするスナック菓子には大人向けの商品もありますが、当時はお子さんを中心として家族のみんなで食べるものというのが一般的な認識だったのです」(加藤氏)
「そうしたなかで湖池屋の開発陣は、アメリカに視察に出かけました。当時のアメリカではタコスに代表されるメキシコ料理がブームになっていたそうです。ホットチリのような辛い食べ物がトレンドになっていました。そこで、当時の日本では暗黙の了解的にタブーとされていた激辛のポテトチップスを開発しようと思い立ちました」(小林氏)
まだ世の中にないものを生み出そうとする創業者のイズムは、湖池屋のカルチャーとして開発陣に浸透していた。そうした反骨心は新たな味への取り組みだけでなく、新たな形状へのチャレンジにも傾けられた。
「ファミリー仕様で100円の『ポテトチップス うすしお味』が、現在の市場の主力商品です。湖池屋は、すべての面において逆張りの戦略に出ました。大人をターゲットにして価格は200円に設定し、激辛でスティック形状。一般常識の逆ばかりで攻めていったのです」(小林氏)
さらには、パッケージでも攻めた。無難なビジュアルにまとめ上げる気など、さらさらなかった。極めつきは “こんなに辛くてインカ帝国” というフレーズだ。開発時の打ち合わせでポツリとつぶやかれたひと言が、そのままパッケージに載った。
「ある種のエキセントリックさを突き詰めて商品化したところ、それがカラムーチョの強烈な個性となって市場に広まる結果となりました」(加藤氏)
実は、味の開発過程においてはさまざまな議論が重ねられたという。「いや、もっと辛くした方がいい」と言い続けたのは、創業者の小池和夫氏だった。開発陣は何度も試作を繰り返し、業界に驚きをもたらす味作りに挑んだ。ただし、単に辛味のレベルを引き上げるだけではなかった。肉や野菜のエキスをバラスよく掛け合わせて “辛くて旨い。そしてやみつきになる味” を誕生させたのだった。
カラムーチョが生まれた時代は、コンビニ業界の勃興期だった。あるコンビニチェーンが、この新商品の可能性に着目して特別に扱ってくれた。そこから「とんでもないお菓子がある」との口コミが広がり、爆発的にヒットしていったという。
このとんでもないお菓子は、流行語大賞にも影響を及ぼすことになる。1986年の新語部門で “激辛” が銀賞を受賞したのだ (受賞したのは「神田淡平」店主の 鈴木 昭 氏) 。遂に、日本にも激辛のブームが巻き起こった。
「その1986年からカラムーチョのCMが始まっています。そこで初めて登場したのが、“ヒーおばあちゃん” というキャラクターです。彼女には “森田トミ” という名前があります。誕生日は、1877年 3月3日。西南戦争があった年に生まれています」(小林氏)
(次ページへ続く → ■カラムーチョ開発陣の味への探求は終わらない [2/3] )