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ランちゃんと共に約半世紀。リアルな記憶を交えつつ、新たな “伝説の夜”「野音Special !」をレポート。お待ちかねの後編 !
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今年、2021年9月1日(水) に発売された伊藤 蘭さんの2ndアルバム『Beside you』に合わせて展開中の『伊藤 蘭 コンサート・ツアー2021 ~Beside you & fun fun ♡ Candies!~』。
いよいよ今週後半、2021年10月28日 (木)・29日 (金) に東京・中野サンプラザ公演が開催されますが、これに先駆け 9月26日 (日) には、特別追加公演として「野音Special!」も開催。
こちらの追加公演については、チケット発売時に「S40ニュース!」でお知らせしておりましたが、1977年7月17日 (日)、日本中に衝撃を与えた “キャンディーズ解散宣言” の歴史的な現場となった日比谷野音のステージで、あの日以来なんと44年ぶりに再びランちゃんが歌った!ということで、開催後も多方面で話題となっていましたね。
その、新たな “伝説の夜” となったコンサートのレポートを、1973年のデビュー以来、48年に渡るキャンディーズとランちゃんの “ガチ” なファン、著述家・編集者の石黒謙吾氏が寄稿してくれました。
昭和40年男は当時はまだ小中学生で、キャンディーズが好きでもなかなかコンサートには行けなかったでしょうが、4コ上の兄貴である石黒氏は、高校時代に「全国キャンディーズ連盟」=「全キャン連」北陸支部の会員として、金沢から全国へ100ステージを追いかけたとか!
その後、2008年開催の「全国キャンディーズ連盟 2008 大同窓会」の発起人になった流れから新生「全キャン連」の代表となった石黒氏は、同じ年、伊藤 蘭さんへキャンディーズについて初インタビュー。その後も2019年のソロデビュー時と今年の2回、取材をしてきました。
そんな石黒氏による、たっぷりの情報と熱すぎる情熱を注ぎ込んだ「野音Special!」超ロングレポート。兄貴世代ならではの、当時のリアルな想い出を交えたオムニバス (?) 形式でお届けします。ということで後編は、衝撃の ’77年、野音での “解散宣言” の夜… キャンキチ高校生・ケンゴの記憶のフラッシュバックからスタート!
(昭和40/50年男 “Web担当A”)
■“解散宣言” 直後の電話… 金沢のファンにも走った野音の衝撃
取材・文: 石黒謙吾
[註]筆者は常に、キャンディーズ時代の記述は全て「ラン」「スー」「ミキ」として、「ちゃん」「さん」は付けずに書くようにしています。なぜなら、当時のファンの立場で、当時話していたままのリアルな言葉で書き残しておきたいからです。女優となった後は全て「伊藤 蘭さん」「蘭さん」としています。キャンディーズについても当時のままに、多くの箇所で「キャン」という呼び方をしていますが、ご了承ください。 |
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1977年7月17日の日曜日、家にかかってきた一本の電話から始まった衝撃。そこから一睡もできずに過ごした布団の中、そして翌早朝、登校前に集まったキャンディーズ追っかけ仲間たちとのやりとりが、44年経った今でも克明に蘇る。
家の電話しかない時代。もちろん携帯なんてものはなく、自宅に夜分、ミキ派の今村優二から電話があって、受話器を取るといきなり金沢弁でまくし立ててきた。
「ケンゴ、キャンディーズ解散すれんて!」
「なんなんやそれ!?」
「日比谷野音で3人がそう言ったんやって! 大井から電話かかってきて、みんなに伝えてくれって。今それしかわからんげんて。大井のポケットに10円玉6枚だけ入っとって、野音の外出てすぐ、覚えとった俺んちの番号にかけてきてん。ケンゴや越野たちにまずは伝えてくれって。今度の9月で解散なんやって!」
「ようわからんけど考えられんな…!? 明日大井が夜行で金沢着くのが6時過ぎやろ。その後、学校行く前集まっぞいや」
「ほやな。7時にウチで集まるように、越野にも今からかけて言うわ」
この前年、高1の夏に『サマージャック ’76』と銘打ったキャンディーズ初のロングラン全国ツアーで “追っかけ” を始めた。金沢の星稜高校入学後すぐ、席も近くだった 石黒 (ラン派) 、今村 (ミキ派) 、越野 (スー派) の3人が、お互いキャンディーズファンだという話になり、4月1日に開催された金沢公演を観てアツくなっていたこともあって意気投合。夏休みにツアーがあると知って「よし、たくさん行くぞ!」となったのだった。
越野の中学の友人・大井 (スー派) も他のクラスにいて参加、同校の4人組と、今村の他校の友人・橋本の5人がメインとなってそれ以降行動を共にするようになり、あとは随時参加のヤツが加わったり。翌年には福井のライブに行った際、前列に座っていた濃いキャンファン、市塚 (ミキ派・今でも一緒に全キャン連運営メンバー) 、青野 (スー派) が星稜の1学年下と知って、これまたファイナルまでつるみ始めた。
こうして僕は高校3年になる ’78年4月4日、後楽園球場の『ファイナル・カーニバル』まで、金沢から全国各地へ追っかけ100ステージを観続けることになる。学業は見事に切り捨てて、資金づくりのバイト三昧の日々を送っていた。
(次ページへ続く → ■一睡もできなかった夜… 朝の緊急集合でも心は真っ暗闇 [2/5] )